人生を何に喩えるか?

これにはいろんな方向があるだろう。私は長らく砂時計のように思っていた。不可抗力的に流れていく。そして上の砂がすべて流れ落ちたとき、死を迎える。なんとも寂しいメタファーだ。でも、このように思っている人も少なくないのではないか。なぜなら生きることは取られなく死に向かっている。生まれ出るものはすべて生まれた瞬間から死に向かっている。これは厳然たる事実。

しかし、このたとえには決定的に欠けているものがある。それは「主体性」だ。ただ何もせず砂が落ちていくのに対して無力な人の姿に主体性はない。だから、このたとえは間違っている。

そこで思い巡らせてたどり着いたのが鉛筆だ。一本の鉛筆。そのままでは生きているとは言えない。行動することによって鉛筆として意味を持つ。つまり書くことで鉛筆の意味が出てくるように、生きることも生きることで意味を持つ。そして書けば書くほど鉛筆は短くなる。そして書けなくなったところが死だ。つまり生きることはすり減ることだが、ただ単にすり減るのではなく、書くという行為によってすり減っていく。書くという行為は必ず何かしらを、軌跡を残す。

何を書くか。この問いはどう生きるかという問いと直結している。なにも公表するものを書く必要はなく、あるいはそれは文章でもないかもしれない。大きく捉えるならそれは作るということだから。つまり、生きることは作ること、書くこと。人生をかけて大きな絵を描くだけが人生ではない。誰にも読まれない一言を書くという生き方もある。そして書かれた作品は読まれることで作品となる。生きた証を残すといった大げさな話ではない。

芯(心)が折れることもある。折れたら書けない。その場合には助けを借りて削らないと再びかけるようにはならない。芯には太いのもあれば細いのもある。

何を書くかも大事。ただ単に線を書いていてもそれが絵になる場合も文章になる場合もある。どの方向に線を伸ばすか、どこで線を曲げるか。

人の描く線に憧れて自分の線を伸ばす人もいる。親の線をなぞるように線を描いていたということに気づくこともある。

キリがないが、とにかくそういうことにしておく。