ありふれた安心航路、退屈な僕ら

2000年のスーパーカーの名作 Futuramaの中のシングルカットされた一曲 FAIRWAY スーパーカーの中で一曲選ぶとしたら、これだと断言できる。 それにしても中村の楽曲と石渡の歌詞、それにコーラス被せる古川という、この奇跡の組み合わせ。 冒頭からこれ。 安心を買った どうしてか心を売って買った気がしてたら 安心はどこか退屈と似ていた そんななぜに撃たれていた 心を売って安心を買ったけどそれは退屈に似ていた 心を売って代わりに手に入れたのが「退屈」だった、と。なぜ安心は退屈に似ているのか? 逃げてない こともない だからどうってだけ 時間がない こともない 事件がないこともない この二重否定の繰り返し。つまり客観的にはこれらは「逃げてるし、時間はあるし、事件がある」けど、「だからどうなの?」と問うてもいる。 つまり、逃げてても時間があっても時間があっても構わないじゃないかという。 結局は今を忘れるなら 目の前のなれあいもためらいもありふてれると思いたいだけ なぜかというと「今」は忘れ去られてしまうから、すべてはありふれたことだから。だから逃げててもいいじゃないかと、そう思いたいのだと。 今、安心を手に入れたい私たち。 今、現実から逃げたい僕たち。 でも、そう思っていても結局は「今」もすぐに過ぎ去る。 つまり悩んでいる僕たちは実に「ありふれている」 そしてミキの歌声 行こう 手の鳴る方へ 名曲から今日も自分らしくいようって イタイくらい届いてるわ ここで唐突に名曲というキーワードが出てくる。そして最終のフレーズ「名曲が今を宥めてるよ」と続く。 「名曲」とはなんだ?つまり、それは世間から名曲だと見なされているもの。世間から評価を受けているものと読み取れる。そしてその評価はやがて権威となる。権威とは規範化を要求する。「こうあるべし」との声が「自分らしくあれ」と要求する。そして「こうあるべし」が「今の欲求」を宥めてる。手を鳴らしているのかは誰か?それは決して仲間ではない。 自分らしくあろうと思っている個人は欲求を持ちながらも、それはありふれたものだと感じさせられ、そして世間からそういうものだと宥められる。特別なんかじゃない。名曲からは今日も「希望を叶えよう」と届いている。ありふれた希望を。それがFairwayである。 Fairwayとは安全な航路を意味する。誰もが安心安全を求めた人生の航路を行く。その安心は退屈であったもしても。そこでは自己実現をイタイくらい唱えられ、しかもそれらはありふれてる。ありふれた個性、ありふれた自己実現。でもそんなことに悩んでいても結局は忘れる。そして名曲によって宥められる。つまり、名曲により自分を慰めるのだ。世間から「だからどうってことはない」と、この現実から逃げてないわけじゃないけど、逃げてるって言い切れるわけでもない。中途半端な立ち位置で。 安心と退屈 曲の冒頭に戻る。「安心を買った」というのは具体的に何を指すのだろうか?買える安心とはすなわち「保険」である。そして保険に入るのは一般的には「大人」だろう。「心を売った」というときの「心」とはつまり「若い心」ということになりそうだ。若さを失い、成熟を受け入れる。このことに「退屈」を感じている。それはまあそうだ。 ここで唐突にくるりの「ばらの花」を引き合いに出す。この頃この二つのバンドには確かに交流があって、おそらくは、ばらの花の「安心な僕ら」というフレーズはこのFAIRWAYから引き継がれている。 「安心な僕ら」はつまりは「退屈な僕ら」であり、退屈だからこそ「旅に出ようぜ」と歌いかけられる。「思い切り泣いたり笑ったりしようぜ」と。ここで「旅」に出るのは、もはや若者ではない。若さと引き換えに安心を買った僕らだ。だから、保険に入った「旅」で、そこには事件は基本的に排除されている。つまり、若者的な「無茶しようぜ」ではない。ここに老成している岸田繁の感性を見ることができる。 僕らもう「若く」ない。けど、若い頃のように「旅」に出ちゃったりしようぜ、なんていう感じ。 「安心な僕ら」は若さを失いつつあり、それでも若さに未練のある少し若者から離れつつある年代に響く。2000年、彼らも僕らもまだ20代だったけど。 ジンジャーエール 「安心な僕らは旅に出ようぜ」と対をなすフレーズが「ジンジャーエール買って飲んだ こんな味だったけな」である。ここも面白い。 つまりこの歌詞は回想している。かつてジンジャーエールを飲んで驚きと新鮮を感じていたはずなのに歳をとった「私」は「こんなんだったけ?」と違和感を感じている。かつて新鮮だったものがそうでなくなったと感じる瞬間。ジンジャーエールというのも効いていて、この子どもにとって得体の知れない飲み物であるというところ。オレンジジュースやコーラではなく、ジンジャーエール。 そしてそれを「買って」飲んだというところ。これはつまり「安心な僕ら」というのが「安心を買った僕ら」であることを暗示している。 かつて「新鮮を買った」僕らは今や「安心を買っている」そして「安心は退屈」なのだ。新鮮の反対はもちろん「退屈」だ。 大人になることのほろ苦さというか、いつまでも若くはおれないという真実。ジンジャーエールに新鮮さを求めて購入していた若い頃の僕、今では安心を買っている。そして退屈している。だから旅に出ようぜ、と。しかし、この退屈さは歳を重ねることによるものだから、旅で解消されるわけではない。それでも若い頃のようにもう一度「新鮮を得るために」旅に出よう。そこでは、もしかすると思い切り笑ったり泣いたりできるかもしれない。かつてのように。

September 7, 2026

インディーズシーンの活況

この1-2年、日本のインディーズシーンが熱い。というありふれた陳腐な書き出し。 これは単に私が熱中しているからそう思えるのかそれとも客観的な数字に現れて活発なのか。客観的にはわからないし、何をもって「盛り上がっている」と定義するかという話にもなり、ややこしい。 熱いよなという声があちこちから聞こえてきたらそれは「盛り上がっている」という認定になるのだろう。 頻度錯覚という心理バイアスがある。気にしだすと急に周りに増えたように感じるアレ。実際には増えてないけど、意識しやくすなっているためそのように感じる。 というわけで「思い込み」の可能性もある。けども確かに数人が「盛り上がっている」「熱い」と書いていたような。それもまた「少数の法則」で、少なすぎるサンプルで何を言えようか。 何が言いたいのか、錯覚で思い込みかもしれないが、とにかく今のインディーズシーンは熱いという私見を発露しておこう、しておきたいということ。具体的な名前は挙げていくとキリがないから言わないけど。 思うに一昔前の関西インディーズみたいな勢いが全国に広がっているような印象がある。変な名前のバンドも多いしね。もうかっこつけたらかっこ悪いというのは常識なんだろうな。 ここまでいいバンドがどんどん出てくるようになったのは作品発表の機会が増えてアルゴリズムがきちんとそれを拾うようになったからなのは間違いない。東京出てレコード会社の目に止まり、みたいなベタな展開はもはや?だろう。 そういえばサブカルってもう言わなくなったような。塊だった僕らは細かく打ち砕かれてそのおかげで多様性花盛りになったものの、それはそれで一層話の通じない世界が乱立するようになった。昔から自分の知らない世界は存在しないのと同じだった。けども、知らない世界が少数=マイナーだったからそんなに問題はなかった。今やメジャーもマイナーも失効してしまっていて、何をもって何を測るのかも曖昧となった。はてさて。

August 13, 2026

ロックについて考える(音楽の方)

ロックとは何か?よく言われるのが生き様とかなんとかいう暑苦しいそれ。でも、それで合ってるのだから他に言いようがない。しかし、ロックミュージックというのもある。これはどちらかというと音楽の形式にフォーカスしている。ギターがうなり、ベースが跳ねて、ドラムがビートを刻むというのが、いわゆる形式的なロックミュージックの典型ではあろう。 ロックが好きというときに、どちらを志向するかは人それぞれで、どちらも同じくらい好きということもある。音楽としてのロック。音楽に限らないロック。 歌とはなんだろう。歌のないロックもある。インストでもロックミュージックではある。しかし、歌はあってもなくても結局のところ、メッセージを発する。これが私たちのスタイルである、と。歌詞についても同様。何を歌おうと結局はメッセージを発する。たとえ何を歌ってるかわからないような言語で歌っていたとしても。英語の歌できちんと歌詞を理解しないと感動しないということはない。言語になる前の言語を受け取る方法が歌なのかもしれない。 演奏としてのロックと作品としてのロック。ライブがレコードか。ここについては先にライブがあり、演奏があり、それを記録したものが作品となる。結果として作品となるわけだが、作品をつくることを目的として作品になるものもある。 ロックはBGMにならないもの。聞き逃せない何かを持つならばそれはもはや日常からはみ出している。その日常からのはみ出しがロックなのだ。非日常というわけではない。日常からはみ出すスタイルがロック的。 ではパンクは?パンクはロックを先鋭化したもので「あいつ、ロックだよな」では足りない時に使われる。尖っていることをいうのに使われる。音にしても歌詞にしても尖っていたらパンクという方が合っている。

August 5, 2026

働き者の歌を聴いてきた

十数年ぶり、もしかすると二十数年ぶりかもしれない。ライブに行ってきた。新進気鋭のバンド、The Tiger のワンマン、場所は難波メレ。 どうしてそんなあやふやな何年振りなのか。ライブに行くのは普通のことで、「これが最後にしばらくライブには行かないだろう、きっと二十年はライブに行けない」などと思いながら行ってないからだ。 懐かしかったけど、そんなに懐かしいって 感じでもなく、どっちやねんという感じだが、こういう感じわかる人にはわかるだろう。 The Tiger 不思議なバンドで、若いのに聴衆はおじさんが多かった。団塊ジュニアがやはり人口の山を担ってるからか、中年中心時代とはまさにこれかと感じた。私もまた紛れもなくそこにいるんだけど。 終わったら1時間半、まったくだれることなく突っ走っていった4人。一体何曲やったのだろう?思いつく限りの曲をやってくれた。 だいたいからして、ボガンボスなのだ。彼らが活躍していた時代、その時代に若者だった人たちがThe Tiger に夢中になるのはおかしくない。そして、そうなると聴衆の多くがその世代となる。もちろん、それだけでは語れないものがあるのは間違いないけど。 若いバンドに多く見られる、ある種の切なさや幻想的なイメージとか、そういうものとは無縁なのが、The Tigerの魅力だ。がっちりと土に足をつけて鳴らす感じがとてもいい。中年世代のハートを狙い撃ちにするかのような「働き者の歌」での大合唱を思い出す。

August 3, 2026

0.10GBの達成感

Yモバイルの4GBプランにしてからもう何年になるだろう。月末にギリギリ残っているときの安堵感。そして何とかやり切ったことの達成感。

July 31, 2026

シャカシャカ音漏れ

小心者ゆえに、通勤電車で音楽を聴くことができない。特に朝の通勤電車はわりと静かなので余計に聴けない。音漏れが気になるからだ。 しかし、よくよく考えると多くの人がワイヤレスイヤホンをしているのに音漏れが気になったことはない。みんな音楽は聴いてないのか?ポッドキャストとか? 割と爆音で聴くのが好きだ。だからやはり周りを気にしながら聴くのは音楽に集中できなくて嫌なのだ。いい気分になっているところを肩叩かれて「ちょっとうるさいです」とか言われるかもと想像するだけでゾッとする。 音漏れしてるかどうかってどうやったら確認できるだろう?隣に誰かに座ってもらってどこまで音量を上げると気になるかを確認するのがいいのだろうが、その「誰か」がいない。ヘッドホンだとどうだろう?こっちのイヤホンの場合は?などと調べていくと結構大変。 音漏れの記憶だけはしっかりとある。それも数十年前のことだろうが、当時のCDウォークマンとかで朝からシャカシャカシャカシャカうるさくてイライラした自分のことを思い出す。音に対してイライラしがちだから、やはり周りをイライラさせたくもない。 ところで電車のロングシート、満席でもJRだと割とゆったり座れるのに地下鉄だきつい。少しの隙間があれば座ってくる人が、地下鉄の方が多いからかもしれない。

July 29, 2026

景気に波はあるのか

今年の夏は暑い。いや、違う。今年の夏も暑い。この「は」と「も」の違い。そして、この「も」には今後ずっとこうだろうという予測も入っている。この暑さはずっと続くし、今後もっと暑くなるだろうと多くの人が思っている。異常気象だねと、異常なことを普通に話す。 昔、親戚と会う時、父と叔父さんは「景気はどうですか?」みたいな話をよくしていた。まるで天気のように。そしてそのことにずっと強い違和感をおぼえていた。景気とはなんだ? 景気循環という考えがある。簡単に言えば好況と不況は波のように繰り返し現れるというものだ。つまり、父と叔父の会話は「今我々はこのサイクルのなかのどこにいるんでしょうね」ということを言っていた。 そして父の答えはだいたい「厳しいですね」みたいな感じで、子どもながらに毎度毎度同じ会話を繰り返してるなと思っていたものだ。 しかし、景気は循環しているのか? 景気が良いというのをバブル期みたいなのを指すのだとしたら、私は働きだしてから一度として景気のいい時期は経験していない。 景気を天気のようにお天道様まかせにしている限り、見放された農民が困窮するように、資本主義のなかでは労働者はずっと困窮する。 とはいえだ。景気を個人の努力の総和で何とかすることも無理だろう。 大阪の商店で交わされるような「どないでっか?」「ぼちぼちでんな」みたいなのはいまだに交わされているのだろうか。

July 26, 2026

日記論

日記というと「今日は◯◯しました。とても楽しかったです」みたいなのを思い浮かべる人は多いのでは?しかし、それは確かに日記ではあるが、日記が全てそのようなものではない。なぜか? 日記というのは事後的な表現だからだ。日々記したものをまとめて何と呼ぶかというと、日記ということになる。最初から日記を書こうと思って書くのが日記ではないのだ。日記を書くというのは毎日継続してその日の出来事を書くのいうのではない。もちろんそうであってもいいのだけど、それだけが日記ではない。 日々何かを記す、それが事後的に日記と呼ばれるものになる。つまり日記を書こうとするから日記らしさの規範に縛られてしんどくなる。なぜなら毎日たいしてこれといった出来事なんてないのだから。 そうではなく、何かしらを記す、そこには何の制約もない。ただ思うこと気づいたこと憤慨したこと悲しかったことなどを記す。続けていたら、それはもう日記と呼ばれるものになっている。あえて名前なんてつけなくてもいいかもしれない。それはそれなのだ。 このように名前をつけて定義づけることで、それまて普通に行っていた営みが何かしら「こうあるべき」というかたちをとることがままある。なんでかはわからない。 ブログについてもどこかでブログとはこういうものだという観念がある。観念があるからそこからズレてはいけないと規範化してしまう。それでブログを始めれないのだとしたら、そのそもそもの「こういうものだ」を取っ払うしかない。

July 25, 2026

どうやって本屋はつぶれていったか

先日、ジュンク堂へ行った。店の中央に文具コーナーが大きく陣取っており、子ども向けの本のコーナーにはトミカのミニカーが売られていた。 町の本屋がどんどん消えていってる。いや「消えて」いってるのではない。「潰れて」いってるのだ。ということを主張するのがこの本。 「いかにしてつぶれてきたか」とあるが、本来は「いかにしてつぶされてきたのか」としたかったのではないか。潰れるという場合、自らの重みに耐えかねて潰れるというのはよくある表現だ。しかし、多くの場合何者かにより握り潰されるというように使われる。本屋はつぶされてきた。つぶれたというとこれまた自然現象のように聞こえる。自動詞のようだ。 本を読みながら、こんな儲からない仕事をどうして本屋は始めた人は始めたのかと疑問に思った。利益率が低すぎる。おそらく、ここには熱意と情熱を食い物にする「やりがい搾取」的な構造があったのだろう。 本屋に行くことはもはや日常ではない。特別なことになってしまった。 いわく本離れだとか、ネット書店つまりはAmazonの影響により町の本屋がつぶれていったという言説にはゆめゆめ引っかからぬようにしたい。 リアルにひどい扱いをされている実態をあかされているこちらの書店。一度行ってみたい。 今、ひとりの書店主として、伝えたいこと 7月、8月と、これまで以上に廃業に追い込まれる書店が増えていった。|二村知子 隆祥館書店

July 24, 2026

8時間労働の絶妙さ

8時間労働の絶妙さ。 これ以上働かせると再生産できないだろうというギリギリのところで線を引いたという印象を受ける。とにかく資本は労働者を使い倒す。あまると勿体ないからギリギリまで絞り取る。レモンを絞り切るように。 いまや搾取ということばは流行らない。流行らせないようにしたから流行らないのだ。搾取されると感じると労働者は反抗してくる。そうなってはいけないのだ。だから最初から芽を潰す。私たちは自分たちで選択して働いているのだと思わせることによって。 しかし、あれだ。こういう言説も流行らない。流行らないことが好きだからこういうことを書く。仕方ない。

July 23, 2026